働く人と組織のメンタルヘルスを支援するオフィスソトコトの木下芳美です。
2月も後半に入りました。私は、この2月を、気持ちが晴れないまま半分過ごしたという感じがあります。
イスラミックステイトによる後藤健二さん殺害事件のことを考えると、胸が痛むのです。
早朝そのニュースが駆け巡った2月1日は京都へ行く予定でした。
愛犬も一緒だったため犬も行ける東山周辺をぶらぶらするうち、高台寺周辺で坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓がこの奥にあるのだと気付き、護國神社の「維新の道」へ行ってきました。
そこで手を合わせながら、はたと、「私の使命って何だろう?」という問いが出てきました。
命の危険も厭わずに信じたことを行った人たちの「使命」と私の「使命」は、同じ言葉で表せることなのか?
私は、医療機関でのリワークプログラムの仕事で、メンタル不調で休職中の方達を対象に「今を人生の節目と考え、こういう機会に自分のキャリアについて考えよう」という時間を持っています。
私は、自律的なキャリア意識を持つことがストレス耐性を上げ再発を防ぐと信じていますので、病気の方には酷かもしれない内容のグループディスカッションもしてもらっています。
ディスカッションのテーマとして「使命」について話し合う機会もあります。
これは決して働くということに限ってのことではなく、生きること全般に関わる幅広くキャリアを捉えた視点での話し合いです。
使命って「命を使う」と書きますね。
参加者の中には、病状によって自殺念慮のある方もいますし、自殺企図や未遂経験がある方もいます。
それでも「自分の命をどう使うか」ということについて考えてほしいと。
心の健康と自分のキャリアをどう両立させていくか、参加者がこれまでを振り返り、未来に向け動き出すタイミングに、自分の「使命」について考えることは、それなりに意味のあることになっていると実感しています。
ただ、後藤さんのジャーナリストとしての活動を知るにつれ、また龍馬のお墓にお参りもきっかけとなって、「使命」という言葉を私が口にすると、すごく軽々しい気がしてきました。
~命を懸けるほどの強い思いがなければ「使命」と言ってはいけないのではないか?~
~いやいやそうではないだろう~
~でも、そうやって安易に否定すれば気楽だけれど、それは自分を思考停止にするだけだ~
~かと言って、厳密に考えすぎると、一人ひとりが「使命」と感じていることをディスカウントすることにもなる~
などなど、
「使命」という言葉の定義についての問いと
「じゃあ、お前の使命って何なんだ?」という自分への問い。
後者については、自分なりにあるつもりだったし、人にだってそれなりに話せるのです。
でも今のままでは薄っぺらく、なんだか後ろめたい思いがします。
私は、後藤さんが亡くなって初めて、紛争・戦争や貧困などで過酷な状況にいる社会的弱者の方々がいるということに、初めて関心が向きました。
そのことへの罪悪感から、今語れる程度の私の「使命」では、許されないような気がしてなりません。
昔から、難しく考えすぎるとは言われてきましたので、こんなふうに考えるのも私のクセではありますが、性分なので治らないのです。
改めて自分に問いかけます。
あなたの「使命」は何ですか?
私は、自分の役割を果たしながら、その問いへの答えに今よりも厚みを増していきたい。
自分の命という資産の使い道は、まだまだあるような気がします。
自分に問うことを諦めずに。
皆さんにとっての「使命」は何ですか?